自殺と安楽死について

アメリカで癌で余命宣告をされ安楽死を選択した女性のことが話題になっていて、わたしもニュースで彼女の残した動画などを見た。

この女性の場合は安楽死というより、癌の痛みや恐怖から逃れるために、あきらかに意思をもって選択した自殺だと思う。

このテーマはとても伝えるのが難しいけれど、この機会に少し自分の考えを書いておきたいと思います。

私は10年ぐらい前まで、自殺がいけないことだと全然思ってなくて、むしろそこまで自分でコントロールできることに憧れさえあった。さらに若い頃は「余命宣告されたらオランダにいって安楽死したいよねー」と友達と言い合っていたこともある。

このころは、死ぬことまでも自分でコントロールしたいという傲慢さがあったのだと思う。

いまは、自殺や安楽死に対する考え方は少し変化した。
人に対してダメとまでは言えないが、自分はその選択をしないと思う。

いままで生きた中で一度も死にたいと思わなかったことのない人はいないと思うけれど、自殺に至らなかったのはなぜだろう。

死ぬのが怖いから、悲しむ人がいるから、やっぱり生きたいから…
人それぞれ理由はあると思うけど。

わたしがなぜ自殺をしないかというと、それは・・・
周りで死んでいく人も多くなり、それで「命は大切だ」とか認識したというわけではなく、なんとなく、生きること死ぬことの意味がぼんやりとではあるけれど、徐々にわかりかけてきたからだと思う。

生きるとか死ぬということは、「自分がコントロールする」ということを手放すこと、という中に本質があるような気がしている。

スイス出身の精神医学者 キューブラー・ロスは、「死の瞬間と死後の生」の中で、「鬱病の結果の自殺は、本人も責任を負えない」としたうえで、安楽死は絶対にノーといっている。


「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫)

「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫)

P.243
「誰かを救った(レスキュー)からといって、かならずしもその人を助けた(ヘルプ)ことにはならない。〜中略〜 私たちは相手に負い目を追わせる「救う」ということと、相手が求めたときに「助ける」ことのちがいを知らなくてはなりません。」

P.256
人を救うことはできません。救われた人は、救ってもらったおかげで学ばずにすんだことを、結局は学びなおさなくてはならないのです。〜中略〜楽にさせてあげようと思って気安く手を貸してしまうと、飛躍的な成長の機会を奪ってしまうことになります。

P.258
積極的な安楽死について、私のきわめて個人的な意見を言わせてもらえば、150パーセント「ノー」です。絶対に認められません。どうしてその患者が苦しみを学ばなくてはならないのか、こちらにはわからないからです。

余命宣告から、自然に死が訪れるまでの間、人はやはりその中でも学ぶべきことやこなすべき課題がある。それをやらなかった場合は、次の生まれ変わった後の人生でまたその課題をやることになる。

「人生の学ぶべき課題から逃げると、それはまた形を変えてあなたの前に現れる。」この言葉は長く生きている人ほど思い当たることがあるのではないでしょうか。

もうあと少しでこの世での命が終わるというのに、次に生まれ変わった時に、また同じ課題をやるのは嫌だなあ…。そんなことを思って私は自殺や安楽死を選択しないと思う。

この文章を書くのはすごく難しくて、どのように書いてもなかなか自分の考えを伝えるのが難しいテーマでした。
キューブラー・ロスの言葉からなにかが伝わればと思います。