ファウストの劫罰 ベルリン国立歌劇 サイモン・ラトル指揮
ベルリンには昨日みた「トゥーランドット」のドイツ・オペラとは別にもう一つ「ベルリン国立歌劇」というのがあります。
今日はこちらのオペラ「ファウストの劫罰」を見ました。
ベルリン国立歌劇場は現在改装工事中のため、シラー劇場での上演です。
ファウストの劫罰はベルリオーズのオペラ(もとはオペラではなかったらしく演奏会形式で上演されることが多い作品)
今日の見え方はこんな感じ
2人で156ユーロ(18,558円)でした。
「劫罰」という重々しいタイトルだけど、音楽はベルリオーズらしい狂気を感じさせるぶっとんだ部分があって、なかなか面白い…はずなんですが、なんか入り込めなかった作品でした。
ファウストは読んだことがあるので、あらすじはわかっているのですが、原作の舞台ではなく「ナチスとユダヤ」に置き換えられた演出で、日本人である私はこれをどう解釈するのか困惑してしまった。
ナチスやユダヤを暗示する、とかではなく、ハッキリ鍵十字とユダヤの六芒星を描いたそのものです。
ヴィクトール・フランクルの強制収容所での体験を書いた「夜と霧」は私の愛読書で、一時期は強制収容所の本をいろいろ読んでいたこともある。
だから、余計リアルにその内容が思い返されてしまって、このオペラにハマれなかったのかもしれません。
どうしてこういう演出にしようと思ったのか、する必要があったのか、これを見て傷つく人はいないのか…いろいろ気になりました。
ドイツにおけるナチスの過ち、というのは現在「忘れないように教訓として」、教育などで「反ナチス」は重要課題だというスタンスだと思っています。
(だから内容的には反ナチスのメッセージであることは間違いありません)
私が「こんな表現で大丈夫なのかしら…」と心配する、ということ自体、自分自身も未熟だし「未熟な国」からきていることを実感します。
日本は歴史上、多くの過ちを犯し多くのひどいことをしてきたわけですが、そのことについて教育を受けたこともないし、話題にするのはタブーという雰囲気の中で育った私には、こういう真正面からの表現には困惑してしまいます。
歴史上、国が犯した過ちに対するスタンスが日本とドイツではあまりにも違いすぎました。
また、芸術とはなにか、ということも考えさせられました。
「この表現である必要があるのか」
「これで演出家が表現したいことはなんだったのか」
古代から続く、気の遠くなるような時間とお金と人手をかけてつくられた西洋の教会や修道院、東洋の神社仏閣、これらの建築物が圧倒的に素晴らしいのは、「どういうものが神様に喜ばれるのか」という信仰を表現する手段としての芸術だからだと思うのです。
日本でも昔は芸術の素地はあったのでしょうけれど(残された多くの木造建築物をみるとそう思います)、現在はいわゆる「売れなければ意味がない」という商業主義中心なので、芸術が育つ余地がほぼ、ありません。
現代の多くのアーティストも「どうやって食べていくのか」が課題になります。
できるだけ多くの人に喜ばれるもの、ウケそうなもの、売れるもの、そして、スポンサーの手前「無難なもの」「あたりさわりないもの」をつくる。
それは芸術家の仕事ではありません。
ショーやエンターテイメントの分野の仕事です。
でも芸術家は「売れそうなもの」「ウケそうなもの」など人に迎合することはありません。
自分が表現したいものを絵や音楽などを通じて表現して、それを世に問う。
人がいいと思うかどうかは関係ない。
人がどう思うか、賛同を得られか、売れるかを気にした瞬間、芸術ではなくなってしまいます。
その芸術家がどうしても表現したいもの、やむにやまれぬものを表現する時、芸術というものが更なる高みを目指す時に必要なのが「表現の自由」なのだと思います。
このオペラの舞台、最後は舞台に山のように積み上げられた「死体」で幕。
あきらかに強制収容所の写真などにある「死体の山」の象徴です。
ちょっとゲンナリ…
実際、歌手や音楽はとても良かったです!
それは救いでした。
(指揮者はサイモン・ラトル。2015年のウィーンでのリングに続き、特に大ファンというわけでもないのに(笑)いったい何度見てるんだろう…。)